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   2回目の流産   
   20週0日進行流産   
   13週 無頭蓋症   
   9週 稽留流産   
   21年前の死産   
   3度の死産   
   2度目の流産   
   8週 胞状奇胎による流 ....   
   顕微授精27週での死 ....   
   繋留流産 9週   

Name: きらきら    ..spmode.ne.jp
Date: 2018/05/30(水) 15:36
  返信  引用  編集 
Title: 2回目の流産    
結婚して1年で自然妊娠。8週で稽留流産。
その後、顕微授精で妊娠。息子を出産。

5年ぶりに顕微授精で第2子妊娠。
今日、11週で稽留流産だと言われました。順
調だったのに、心拍が確認できないと言われました。
息子はお兄ちゃんになるんだ!と意気込み、毎日お腹を撫でてくれていました。
エコーでは私でもわかるぐらい赤ちゃんが育っていなく、あぁ心臓動いてないなと思いました。
またあの手術を受けないといけない。
やっと妊娠したのに、なんで私だけ…としか今は思えません。





Name: りとるついんすたーずママ    ..home.ne.jp
Date: 2018/05/12(土) 20:07
  返信  引用  編集 
Title: 20週0日進行流産    
二卵性の双子を妊娠中、20週0日で突然陣痛がきました。

分娩時間8時間半、その日に退院して、4日後に火葬という、人生で感じたことのない嵐のような時の流れでした。

夜21時頃、少しお腹が痛い気がする。恥骨辺りも痛い気がすると思い、ソファーで横になりました。
症状を検索すると、子宮が大きくなる時期で下腹部痛や恥骨痛はあるとのこと。
暫くすると痛みはおさまりました。
また出血もお腹の張りもありませんでした。
最近お腹が大きくなってきたので、子宮が大きくなっているのかな、これから2人はどんどん大きくなるのかなと思いました。

その痛みが22時50分頃から激痛に変わりました。それも2分間隔で。
痛みの無い2分の間に夫に声を掛けて、急いで病院に連絡をして直ぐに向かいました。
2分はとても短く、すぐに次の痛みが来ます。
これは陣痛でした。
妊娠6ヶ月で予想もしていなかった陣痛到来。
車の中でも、病院に着いても強い痛みはおさまりません。
医師に告げられたのは進行流産で羊膜が見えているとのこと。
すぐに分娩台へ移されました。
子宮収縮を抑える点滴を受けましたが、陣痛の間隔は開かず、2分間隔のままでした。
初めは足の間に何か挟まっているという感覚だったのが、水風船が挟まっているという感覚に変わりました。羊膜がほぼ出てきていたのです。これはもう危ない状況だと自分でも分かりました。
この時夫は、羊膜の中で元気に動く赤ちゃんを見ました。
「パパ、僕こんなに動けるんだよ」と元気に動く姿を見せてくれたのかな。

お空へ帰ってしまうことを承知で、生きている赤ちゃんを産む。
本当はもっとお腹の中で育ててあげたい、もっと一緒にいたい、一緒に遊びたい。
でも不思議と「きっと今、赤ちゃんも苦しいんだろうな。お互いここまでよく頑張ったよね。苦しいよね。出てきていいよ。ありがとう」という思いでした。

すると「準備を始めます!」と助産師さんが言い、点滴が外されました。分娩が始まります。ついにこの時が来ちゃった…。

生まれてきた2人は、すやすやと寝ているようでした。
そして、2人はただただかわいかった。
暫くすると涙がとまりませんでした。
さっきまであんなに冷静でいられた自分はどこへ行ったのか。

それからの1週間は我が子を探してばかりでした。
2人が命をかけて私の命を守ってくれたのかなと受け入れたと思えば、守れなかった自分を責めたり。
どんなにつらくても朝はやってきます。前へ進まなければ。
命はこんなにも儚いものなのか。
2人が命をかけて伝えてくれたことはなにか、これからの人生で集めて行きたいです。
どうか今出産を控えている方とその赤ちゃんが、母子ともに元気に出逢えますように。





Name: あき    ..yournet.ne.jp
Date: 2018/05/10(木) 13:18
  返信  引用  編集 
Title: 13週 無頭蓋症    
たった13週と2日の命でした。

新婚旅行後、すぐに妊娠がすることができました。
とてもとても嬉しかったです。
口にヘルペスが出来てしまっり、身体の体質が大きく変わってしまって苦労しましたが、成長するのを本当に楽しみにしていました。

しかしながら、その子は胎嚢のみしか育たず、9週で稽留流産の手術を受けることになりました。
とても悲しかったです。

なんとか事実を受け入れ、乗り越えて、きっと帰ってきてくれるはずだから・・・と、前向きに頑張っていたところ、
それから2ヶ月後、すぐにまた妊娠することができました。
今度は胎芽もちゃんと見ることができて、7週目で心臓が動いてるのが見えた時の感動と愛しい気持ちは本当に忘れられません。

不安だらけでしたが、私にとっての「魔の9週」を過ぎたので、もう大丈夫だろう、2度も辛いことが起きることはないだろう、悪阻もあるけど、それも嬉しいことだ。
仕事もほどほどにして、頑張って育てようと意気込んでいました。

11週になり、だいぶ大きくなり、エコーで我が子を見たとき、ピョンピョン跳ねる姿が見えたり、両手で顔を隠す姿が見れたり、本当に可愛くて可愛くて仕方がなかったです。
先生からまた2週間後に診察に来てねと言われ、あれ?そろそろ1ヶ月に1回の診察になるはずだよね?チケット足りるかな?と不思議に思っていましたが、またエコーが見られるから嬉しいし、むしろ2週間でも待ちきれないと楽しみに思っていました。

13週と1日目。
旦那にもピョンピョン跳ねる我が子を見て欲しくて、一緒に来院。
そこで先生はいつも通りエコーをしてくれ、またまた愛しい我が子と対面でき、また大きくなってる!動いてる!とはしゃいでいました。
でも、先生は何も言いません。
あれ?なんで何も言ってくれないの?と思っていたら突然、
「この子ね。とても元気だけど、頭に障害があるかもしれません。頭蓋形成が上手くいっていないかも。下からのエコーでも見てみるね」と、言われました。

崖から突き落とされた感覚でした。
下からのエコーでも頭の形をハッキリ確認することができず、大学病院から来る別の先生にも診てもらうことになりました。

翌日、結果は一緒でした。
「無頭蓋症」でした。。
初期の発達の段階で、おでこから上部分だけがうまく育たず、お腹の中では生きられるが、外に出てからはすぐに死んでしまう病気でした。
原因は、葉酸不足だったり、ビタミンAの摂り過ぎだったり、染色体異常だったり、遺伝子異常だったり、いろんな説があるけれど、
でも原因は不明で、文献には2000分の1の確率で起きると書かれていました。

葉酸はサプリでとっていたし、前回流産してしまったのに、なんでまた私?
仕方がないという言葉では簡単に片付けることが出来なくて、現にお腹の中で元気に動いてるこの子がいるから本当に辛く、泣くことしかできませんでした。

13週目なので本来であれば分娩するところですが、赤ちゃんもそう大きくなく、母体の負担を考えて、との先生のはからいで、掻爬手術を行うことになりました。
分娩と違って、赤ちゃんをバラバラにして取り出してしまうため、生きてる命をそのようにしてしまうと思ったら本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

手術の日。
処置開始直前で先生が「エコー見ますか?」と声をかけてくれました。
最後まで我が子の姿を見たいとの思いから見ると即答し、見せてもらいましたが、バタバタと足をバタつかせて元気いっぱいに動いていました。
その脚の形が旦那にそっくりでつい笑ってしまいました。
エコー見ながらお腹に手を当て、ごめんね、ありがとね、また会おうねと伝えました。

術後は自分でも不思議なくらいスッキリしていました。
先生と我が子のおかげで、すぐに回復しました。
落ち着いた頃に看護師さんが来て、
「赤ちゃんバラバラになってしまってますが、見られますか?」と声をかけてくださり、会いたい一心で「見る」と即答していました。

赤ちゃんは、たしかにバラバラで、なんとか人の形に整えてくれてたって言うくらい可哀想な姿でした。
でも、ちゃんと、小さな手と足もあって、それぞれの部分はしっかりしてて、よくこんなに育ってくれたね、ありがとうと、とってもとっても可愛くて愛しくて仕方がなかったです。
その見た目から性別は判断出来なかったけど、前日のエコーで股からそれっぽいシンボルが見えたのできっと男の子だったんじゃないかなと、思います。

明日、火葬してきます。
赤ちゃんの箱を、花とお菓子とオモチャでいっぱいにして、しっかり見送ってあげたいと思います。
こんな形でお別れするとは思わなかったけれど、命の尊さ、繋ぐことの難しさ、支えてくれる方々への感謝など、数えきれないほどのことを教えてもらったと思います。
こんなパパママを選んでくれて本当に本当にありがとう。
たった13週2日だったけど本当に楽しかったよ。また会おうね。

昨日の空は本当に綺麗だと思いました。

〜その後〜

火葬を終えました。

術後の診察を受けた後、赤ちゃんを迎えに行き、
お家に帰って、時間まで家の中を案内したり、小さな箱の中に私たちの好きな色のお花や粉ミルクやお菓子やアンパンマンのイラストなど、入るだけ入れました。
赤ちゃんの顔をみて、旦那と一緒にたくさんたくさん泣きました。
この子のために泣いてあげることが、私たちにできることじゃないかと思って、思いっきり泣きました。

火葬場で最期に会いました。
どうしてもお骨を持ってまた一緒に家に帰りたかったのですが、小さ過ぎて残ってないんだろうなと半ば諦めていましたが、奇跡が起きました。
小さな小さな肋骨1本を見つけてくれたのです。
嬉しくて仕方がなかったです。
用意したハート形の骨壷に大切に納め、大事にくるんで一緒に帰ろうとひたとき、先ほどの方が
「待ってください!もう一つありましたー!」
と後ろから呼び止めてくれました。
私たちもすぐに駆け戻り、見ると、たしかに、しっかりとした肋骨がありました。
「こんなに大切に思ってくれてるお父さんお母さんだったから、なんとかまだ見つけられないかなぁと思って、目を凝らしていたら見つけられました。肋骨は心臓守るために1番早く作られて、その分しっかりしてるからこんなに小さな子でも残ったんだろうね」と、言ってくれたのがとても嬉しかったです。とても救われました。

それから3人でまた家に帰ることができました。
お菓子やお花や人形と一緒にリビングで、見守ってくれています。
そこに、息子がいると思うだけで心が温かくなります。
この子にたくさんの笑顔を届けてあげられたらなって思います。
正直、本当はまだ寂しくて寂しくてたまらないですが、息子が残してくれた沢山の奇跡、私たちにとっての宝物たちを、ずっと大事に大事にしていきたいと思います。

最期の日も本当に晴れ渡っていて、綺麗な空でした。
息子にがんばってと言われている気がしました。





Name: あさ    ..ap.nuro.jp
Date: 2018/04/18(水) 19:34
  返信  引用  編集 
Title: 9週 稽留流産    
はじめての妊娠で、稽留流産を経験しました。
6週目で初めて産婦人科に行き、胎嚢を確認しました。
結婚前で、突然の妊娠だったのにも関わらず、先生の説明後はパートナーと手を取り合って喜びあいました。

妊娠が判明してからは、今のお腹の子の状態や、これからどう育っていくのかなどをネットで調べたり、雑誌を購入したり、男の子か女の子か、名前はどんな名前にしようかなど、常に考えていました。
つわりの代表とされる吐き気も全くなく、たまに大丈夫なのかなと心配にもなりましたが、検診でエコーを見ては無事に育っている姿に安心していました。

8週目になり、初めて心拍が確認できました!
小さいながらも、一生懸命パクパクと動いているのを見たときは、これで一安心かなと思って、とても嬉しかったです。
母子手帳をそろそろもらってきてと言われるかなと、わくわくしていました。

9週目、エコーを見た私は大きくなっている赤ちゃんの姿に感動していたところ、先生からは唸るような声が。
ちょっと今日は心拍が見えないので、また明日来てくださいとのこと。
急な出来事に頭が追い付かず、とりあえずパートナーに連絡しました。
泣きたくもありましたが、今日たまたま見えなかっただけで、明日になったら確認できるかもしれない、と、自分に言い聞かせ翌日の検診に向かいました。

結果は変わらず。昨日と同じで心拍確認できず、お腹の中で赤ちゃんが亡くなっていると告げられました。

病院では周りに人もいるせいか涙はでてきませんでしたが、家に帰ってからはずっと泣き続けました。
この前までは心臓が動いていたのに、急にお空にかえっていってしまった。まだお腹にいるのに亡くなっているなんて。

流産を経験している方は多いと聞いていましたが、どこか他人事でした。
吐き気などもなく、普通に仕事も食事もしていて、病弱な訳でもないから普通に生まれてくると思っていたので、まさか自分が流産で子供を失うなんて思ってもみなかったです。

流産が発覚してから手術までは、あっという間でした。
術後の通院は本日が最後でしたが、胎動を感じる事もできず、母子手帳ももらえないまま妊娠が終わってしまったことを思うと、待合室ですごく、やるせなく惨めな気持ちになってしまいました。
こんなことを思う自分もすごく嫌なのですが。

このサイトを知り、自分の気持ちが吐き出せるような掲示板があることに感謝します。





Name: akiki    ..ocn.ne.jp
Date: 2018/04/08(日) 14:05
  返信  引用  編集 
Title: 21年前の死産    
もう21年も前のことになりました。
だけど、昨日のことのようです。
あの瞬間のことが、今でも時折、フラッシュバックします。

初めての妊娠、出産でした。
予定日を1週間近く過ぎて、おしるしが来て入院。
普通分娩で陣痛が10秒刻みのところまで来てたのに、「赤ちゃんの心拍が弱い」とのことで、緊急帝王切開となり、
しかも、夜中のことで、夫も、誰も居ないところで、何が何だか・・・。

下半身の麻酔も効くか効かないかの段階で手術が始まり、切られる痛さと、心の不安とで戦っていました。
確かにお腹から赤ちゃんが取り上げられた感触があったのに、何か違う。
先生、看護師さん方のあたふたした緊張感、そして何よりも産声が聞こえない。

目が覚めると、真っ暗の病室に夫が隣に座ってました。
「赤ちゃんは?」と、夫に聞くと、「未だ、必死に頑張ってるから!」と。
私自身も血圧が急低下して、治療を受けていたようです。
それから数分もせずに、夫が先生に呼ばれました。
暫くして戻ってきました。
「だめだった‥」と。
真夜中の静まり返った病室で、声を殺して泣きました。
直ぐに葬儀屋が引き取りに来るのでどうするかと言われ、引き取られる前に一目でも会いたい、抱きたい!と病室に連れて来て貰いました。
私の身体が憔悴しきっていて抱くことが出来ず、隣に寝かせて、無理を言って夫に写真を撮って貰いました。
「肺形成不全」だと言われました。

「どうしよう。夫の母や姉に何て言われるだろう」
恥ずかしながら、1番目に思ったことはそれでした。
夫は田舎で名の通っている商売をしていて、赤ちゃんが出来る前もお腹に出来た時も、跡取りの長男を!と言われ続けていました。

第2の戦いが始まりました。
出産したのに赤ちゃんはこの手にはいない。
帝王切開の為、入院期間が長い。
そして私自身の体調が悪く、2週間の入院生活。地獄でした。
隔離されたように、病室は薄暗い1番端っこの個室。
それでもお構いなく、私の前後に出産した赤ちゃん達の泣き声が昼夜関係なく私を襲う。
そして、飲ませてあげる赤ちゃんはいないのに、搾乳をしなければならない悔しさ。
その後、母乳を止める薬を飲まされ、あんなに大きかったお腹はペチャンコなのに、その証がいない。
そして帝王切開の痛みや目眩、吐き気と戦いました。
産後健診の診察の時、出産したママ達と一緒に待合室で待たされ、そのママ達の手にはみんな可愛い赤ちゃんが。
惨めでした。針の筵でした。
帰りは、看護師さんに頼んで、他のママ達とは会わない非常階段からひっそり帰りました。
涙が止まりませんでした。

退院も1人。
日曜でも有り、先生や看護師さん方の見送りも無く、最後までひっそりと何か悪いことでも私がしたかのように息を潜めていた入院でした。

その後、自律神経失調症になり、鬱になり、また戦いました。
夫も私に何と声を掛けていいのかどう接すればいいのか分からなかったようで、毎日、毎晩、外に飲みにでかけ、家に居ませんでした。
ずっと私は1人でした。1人泣いて過ごしました。
夫の家が田舎の老舗でもあるので、それはそれは大変でした。
世間体で離婚も出来ず。

次の歳に、次男を妊娠し、出産しました。その子が20歳を迎えます。
今の時代のように、話したくても話せる場所がなく、溜めて溜めて、1人で我慢して来たことも有ってか、引き摺ったままです。
この見えない十字架を、きっと一生1人で背負ったままだと思います。
もうすぐ、その亡き長男の21歳の誕生日です。





Name: ぶるう    ..home.ne.jp
Date: 2018/04/03(火) 17:16
  返信  引用  編集 
Title: 3度の死産    
長男を出産後、3人の息子、娘を死産しました。
次男・三男は、安定期に入ってからの原因不明の死産。
娘は、33週で臍帯真結節でお空に返してしまいました。

私は妊娠したらいけないんだ。
私のお腹にくるとみんな亡くなってしまう。
本当に毎日泣いてばかりです。
なぜうちの子はかり3人もお空に返さなくてはいけなかったのか。私が何かいけないことをしたからみんなお空に返ってしまったのか。

娘の妊娠期間は、とても順調だったので、産まれてきてくれるものだとばかり思っていました。
先生には「今回のことは、本当に偶然起こってしまったことで、誰も悪くないし、赤ちゃんが元気すぎたんですよ」と言われました。
そんなふうに言われても、女の子だったし、旦那もすごく楽しみにしていたのに。

緊急帝王切開で、1746gの、息子にそっくりなかわいい娘を出産しました。
娘は見るのもかわいそうな姿をしていました。
涙が止まらなかったです。
私も旦那も立ち直れるのか不安です。
ただ長男がいるので、多少ですが、気は紛れています。





Name: クリス    ..ocn.ne.jp
Date: 2018/03/16(金) 14:33
  返信  引用  編集 
Title: 2度目の流産    
初めの流産は、稽留流産。
手術で休みを取る為、社長にだけ話した。

2度目の妊娠は、ある程度安定してからと思い、職場の誰にも言っていなかった。
その中での出張。
不安に思いながらも、東京へ行った。
途中、出血があり、お腹が張り始めた。
それでも仕事を終え、帰りの新幹線に乗り、これで一安心と思った瞬間、ドバッと水と血の混ざった物が大量に床に落ちた。
急いで新幹線のトイレに入ると、ゴポゴポと大量の出血。
直ぐに病院に電話するも、「残念ですが、もうどうする事も出来ないので、明日病院に来てください」と。
正直、今、この状況が酷すぎて、助けを求めたいのに、酷い対応だった。
夫に連絡したら「今すぐ緊急ボタン押して、助けを求めて、新幹線から降りて病院いけ!」と。
ゴポゴポ、ゴポゴポ。
もう流れているのは明らかで、この状況から動く事も出来なくて。けど、このままではいけないと思って、緊急ボタンを初めて押した。
駅員さんに、医務室的な所に連れて行ってもらって、トイレとベットを往復した。
赤ちゃんどこ?と探しても分からない。
大切な命なのにトイレに流れいく。捨てているみたいで、辛い。
こんな形でなく、赤ちゃんを探して取り上げて欲しかった。
自分の中が空っぽになっていく。

最寄り駅に到着して、車椅子で移動した。
母と妹が駅まで迎えに来てくれた。
母の顔を見てホッとしたのか、涙が止まらなかった。
車の中で母は、「子供が出来ない事でなく、あなたが辛い思いをするのが一番辛い」と涙を流し、
自分の所には赤ちゃんが来てくれないのかもと泣く私に、妹は、「姉の為に私が産むから。養子にもらって」と。
妹の思いに、涙が止まらなかった。
お腹の中に宿った命を失うという事は、本当に辛い。
家族を悲しませる事も、本当に辛い。
私のせいで、みんなごめんなさい、何度も心の中で謝った。

家に着いて、旦那が泣く事は無かったけど、寂しそうな表情だった。
元々感情的にならない人だから、特に何か言ってくれたとか、そうという事は無かったけど、私が不安と悲しみで、そばにいたり、甘えたい時はふんわり受け入れてくれる感じだった。

次の日は病院へ行った。赤ちゃんは、やっぱりいなかった。
ただ、流れきれていない赤ちゃんを守るものが少し残っていると。来週、それが流れきっていなければ、手術をして取り出すとのこと。
仕事も明日からでも大丈夫と。
赤ちゃんが流れてしまっているので、流産の原因はわからないけど、不育症の可能性があるから、検査をした方がよいとの事だった。

けれど、私は自分が出張へ行ったせいだと思った。
もし妊娠した事を報告をしていれば出張へ行かなくてよかった。
流産する事も無かったかもしれない。
まわりへの配慮と思っていたけど、何より大切なのは、赤ちゃんだったのに。後悔してもしきれない。

その後、出張の仕事の続きを始めた。
何事も無かったように2店舗の店長と連絡をとりながら、自店を含め、3店舗分の仕事をした。
涙を流しながら家で仕事をした。

次の日も、出血はずっと続いていて、腹痛が酷く、仕事が出来る状態ではなかった。
腰を90度曲げていないと、立つことすらできないくらい痛い。
職場には、風邪をひいて、腹痛が酷くて仕事に出られない。という理由で、2日間の休みをとった。

流産して4日目、仕事に復帰した。
職場には何も言わず、何事も無かった事のように。
だけど、出血は1週間続いた。

2度の生理がきたら、また妊活してもいいらしい。
そして、不育症の検査の為、病院の紹介状をもらった。
不育症だったらどうしよう。この先、どうなるのだろか。

夫と二人で、義父と義母に会う約束をした。

私の嫁ぎ先は、寺。
義父が住職、夫は長男で次期住職で、現在は公務員と寺の仕事のかけもち。
姉二人も寺に嫁いでる。
私は、ずっと自分は寺の嫁として、ふさわしくないと思っていた。だからこそ、自分の仕事をがんばって、上の役職へ昇進する事で認めてもらいたいと思っていた部分もあった。
御門徒さんが沢山いる以上、公務員のような堅い仕事なら誰からも認められるからだ。

それでも、義父と義母は、温かく私を迎え入れてくれた。
義父はいつも笑顔で優しく温かい。
義母は、いつも私を気づかってくれて本当に優しい。
ただ、寺の嫁として嫁いだ以上、私は子供を産まなくてはならない。それも、出来れば男の子。
誰から何を言われたわけではないけど、わかっている。
だけど、こんな事になってしまって、合わせる顔が無かった。
私は寺の嫁として、ふさわしくないかもしれない。
申し訳なくて、会うのが怖かった。

義父と義母は、いつもと変わらず、温かく迎えててくれた。
そして、なかなか言い出せない私を気づかって、夫が話し始めた。

しかし、義父と義母が話してくれた内容は意外だった。
まず、義姉のこと。
義姉は2人出産しているが、結婚してなかなか子供が出来ず、流産も4度経験したこと。
その中には、安定期もすぎてだいぶ経った後に流産して、産むときも大変だったこと。
義母自身も、出産が難しいと言われながらも、色々な病院をまわり、子宮を半分とる手術を受けて出産した経験があること。
大変な思いをしている人は、私だけではない。諦めなければ、希望があるということ。

ここに来て、辛い思いをすると思っていたけど、逆だった。
私の為に辛いことを話してくれて、温かい言葉を沢山頂いた。
私は寺の嫁にふさわしくないとか、御門さんの期待に応えれないかもなど、寺の事ばかり気にしていたのに、義父と義母が心配しているのは、私の体の事だけだった。

私はバカだ。本当に自分は恵まれている。
義父と義母のもとに嫁ぐ事が出来て、本当に幸せものだ。
いつか、必ず恩返ししたい。
今度こそ元気な子供を産んで、喜んでもらいたい。そう心から願った。





Name: -    ..sannet.ne.jp
Date: 2018/03/09(金) 02:04
  返信  引用  編集 
Title: 8週 胞状奇胎による流産    
待望の2人目妊娠が妊娠検査薬で判明。

不妊治療でタイミング法を指導され、がんばって3周期目での妊娠。
驚きと感動を覚え毎日がわくわくでした。
5週目で胎嚢が見えたので、次は心拍確認だね、名前どうしよう?気が早いね、などと夫と話していたところでした。

ある土曜日の朝、粘りのある茶色い出血がありました。
病院へ電話すると、すぐ来て、と、緊急で受診。
胎嚢がいびつで、育たないかもしれない。
そう言われたときは本当にショックと不安でした。

初期の流産は仕方のないこと、という知識はありましたが、とにかく安静を心がけました。
安静にしているうちも、不安ばかりでした。

次に受診すると、心拍がなく、胎嚢がますますいびつに。
異常妊娠かもしれないと言われました。
胞状奇胎の可能性があると。
まだ信じられず、つわりもないので(胞状奇胎はつわりが重いとネットで見ていた)夫も信じられない様子でした。

胞状奇胎の疑いということでクリニックから大きな病院へ紹介されました。
私はショックで意識を失いかけました。

やはり心拍なく、ホルモン値が高いため、2度の手術。
本当に本当につらかった。
経過観察の採血。
1年間は妊娠禁止。

命があること、当たり前のことじゃないんだ。奇跡的なことなんだ。
生きよう、と思えました。

ただ、周りで複数の子連れや赤ちゃんを見ると涙が出ます。
見たくない、消えろ!とも思います。
いつまでこの荒れた気持ちが続くのか。
また次の妊娠が怖くて。

タイミング法をがんばってましたが、
無理な妊娠はしないほうがいいのかなと思えてきました。





Name: はるママ    ..ocn.ne.jp
Date: 2018/02/21(水) 13:35
  返信  引用  編集 
Title: 顕微授精27週での死産    
40歳で結婚し、不妊治療を始めました。
6回の人工授精でも効果なく、体外受精へ移行を考えていた矢先、41歳の時に自然妊娠。
しかし、6週で心拍を確認することなく流産。

そして体外受精を開始し、42歳、顕微授精で妊娠しましたが、胎嚢のまま赤ちゃんにならず2度目の流産。
43歳となり、凍結受精卵の最後の一つにかけて胚盤胞を戻し、妊娠。
今回は安定期まで来たと安心していた7か月に入ったある日、
いつもの胎動が少なく弱い。
数日前にエコーしたときは問題なかったけど、ゆすっても起きなかったので また寝てるのかな、と思っていました。
でも、やっぱりいつもと違う。
休み明け受診すると、すでに赤ちゃんは亡くなって少し時間がたっていたのです。

早く受診しなかった自分に後悔と赤ちゃんへの申し訳なさで涙が止まりませんでした。
少し具合が悪いのかもしれないと思っていたけど、まさか亡くなっているなんて。
これまでの治療で採卵が難しかったので、赤ちゃんに兄弟は産んであげられないだろうと思っていました。
きっと最初で最後の赤ちゃんだから、大事に大事にって思っていたのに。
悲しくて悲しくて、今はどうしていいのかがわからないくらいです。

ひとまわり近く若い夫は優しく支えてくれますが、子どもが大好きで、亡くなった赤ちゃんを抱いてかわいいかわいいと何度もつぶやいていました。
かわいそうで解剖など詳しい検査はしませんでした。
染色体検査もしませんでした。
臍帯が長めで首にかかっていたけれど、締まってはいなかった。
臍帯が捻じれて細くなっていた部分があったがけど、血流が途切れるまではいなかった。それだけがわかりました。

まだ、赤ちゃんがなくなって1週間しかたっていないので ただただ泣くばかりの毎日です。
これから夫のためにも前をむかなくてはとは思っていますが、まだ時間がかかりそうです。





Name: ヤマト    ..au-net.ne.jp
Date: 2018/02/11(日) 16:54
  返信  引用  編集 
Title: 繋留流産 9週    
昨年、両側卵巣腫瘍で片方摘出し、もう子供は望めないのかなぁと諦めていた矢先に第二子を授かりました。

第一子から4年。待望の第二子でした。
一度は諦めていたママになれる喜びでいっぱいでした。

9週目の診察で、心拍がないことが分かりました。
8週目まで成長はしていた。愛しい愛しい子。

頑張ったね。ママのとこに来てくれてありがとう。
お姉ちゃんに会わせられなくて、ごめんね。
忘れないからね。お空で見守ってね。






 
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